ナイキ創業から上場までの激動を知る、フィル・ナイト「SHOE DOG」福岡もナイキの軌跡に登場していた
本屋さんでも大ベストセラーで、既に読んだ人も多いでしょう。ナイキ創業者のフィル・ナイトによる自伝「シュードッグ」。もう夢中で読んでしまいました。
スニーカー好きと言いながら、デザインの趣味の合うスニーカーを買うだけで、細かいバックグラウンドまで掘り下げていないレベルの私には、知らないことだらけ。
本書では、60年代のオニツカタイガーの米国代理店としての創業から、ナイキが上場するまでの80年ころまでにフィーチャー。ジョーダンもエアマックスも出てこない経営本ですけど、まさにアメリカンドリームをつかむ創業者フィル・ナイトと、それをささえる創業メンバーの歩んできた軌跡を時系列に紹介します。
初めて知って衝撃的だったのは
///ネタバレ注意///
・オニツカの代理店になるために、単身日本に乗り込んだ
・その前にハワイで羽目をはずしてサーフィン三昧
・創業期のメンバーは陸上ランナー出身ばかりだった
・スタンフォード大学卒業/MBA取得のハイキャリア
・創業期は会計士の会社員業と兼業だった
・それなのにバランスシートは最低
・キャッシュが少なく、何度も倒産危機。
・救ったのは日本の商社だった
・初期のナイキ製品を作ったのは日本ゴム(現アサヒシューズ)
・上場後に喧嘩別れした役員がアディダスへ
・アディダス嫌い
などなど。
で、感想ですが「とにかく日本の存在感」ですよ。「カメラの市場をドイツから日本が奪ったように、日本の製造業に注目」と卒論に記したフィル・ナイトが、実際に何度も日本に訪れ、交渉し、感謝し、喧嘩し、助けられ。
自ら「日本依存」というほどの日本との距離。そして、それがオニツカタイガーとの決別後も、別で日本との良い関係が続いているとのことで、勝手に親近感を増したのでした。
さらには、福岡も大きく関係していたのです。オニツカタイガーとの決別後、オリジナル商品で戦うことになったナイキの製造拠点となったのが、久留米に本社を置く「日本ゴム」であり、これは現在のアサヒシューズ(アサヒコーポレーション)なのです。久留米といえば、ブリジストンやアサヒシューズ、ムーンスターなど、ゴムメーカーが集まっていますが、中でも日本ゴムで製造されたソールを装着した初期のナイキ製品は海を渡り、全米で注目のブランドになっていきます。初期ナイキ製品のなかでも代表的な「ボストン」は、もともと「オーボリ(OBORI)」と呼ばれていて、これは福岡国際マラソンのコースとなった福岡市中央区の大濠公園が由来と言われているそうです。
なんとも胸熱なストーリーです。
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本文中にもワッフルソールの開発秘話が出てきますが、やわらかくてペタンコのランニングシューズは、最近のスニーカーとは違う体験をさせてくれます。
こうなると他のブランド(とくに敵視してたアディダスなど)のヒストリーも気になります。